プロ野球の新人選手選択会議(ドラフト会議)はきょう20日、午後5時から都内のホテルで開かれる。日本ハムが1位指名を公表した日体大の矢沢宏太投手(22)は藤嶺藤沢(神奈川)時代の18年に指名漏れし、49日後に父・明夫さん(享年59)が急逝した。涙の別れから1407日、天国で見守る父とともに運命の日に臨む二刀流左腕。母・香さん(46)が苦難を乗り越えた息子への思いをつづった。(構成・柳内 遼平)
宏太、いよいよドラフトの日が来たね。「矢沢宏太」の名前が呼ばれたら私はきっと泣いてしまうけど、あなたはきっとケロッとしているはず。ずっと「1位候補」って言われてきたね。それでも20日が近づいてくると「また4年前みたいに…」と心配に思うこともありました。
車で薬品を配送する仕事中だった11日の午後。親族から「日本ハムが宏太を1位指名する!」と連絡が来た時は泣きそうになりました。寮暮らしでリーグ戦中の宏太には「おめでとう」も直接言えてないね。会見場で伝えようと思います。
あのドラフトから4年がたちました。18年の10月25日、藤嶺藤沢の監督室。家族で指名を待ったね。「育成では行かない」とプロ球団には伝えていました。でも支配下指名が終わっても名前は呼ばれず。そのタイミングで「育成でプロに来ないか?」と2球団から誘いの電話が来て、宏太の心は揺れ動きました。宏太とパパ(明夫さん)、咲来(さき)ちゃん(長女)、私の家族会議で「育成でプロに行けばうそつきになる。筋が通っていない」と相談して進学を決めました。帰宅の車中で元気がなかった宏太。「日体大でドラフト1位になろうよ」と皆で励ましたこと、はっきりと覚えていますよ。
それから49日後の夜。町田駅から宏太と帰宅すると、パパはソファの上で意識を失っていました。救急車を呼び、宏太は病院に付き添おうと自分のリュックに着替えを詰めていましたが、心臓発作だったパパの目は二度と開きませんでした。家族を亡くし疲れてしまった私は「家族葬にしようか…」と弱気になりましたが、宏太は「野球のお父さん(保護者)たちにちゃんとお別れしてもらった方がいいと思う」と言ってくれました。号泣する葬儀の参列者を見て、それまで人前で涙を流さなかった宏太も泣いちゃったね。家では宏太らしく「もらい泣きしちゃったよ」とへっちゃらなふりでした。
野球を始めた時からパパはずっと近くで見守ってくれました。映像制作で音声の仕事をしていたパパ。私の撮影した宏太のビデオを見て「アングルがなぁ」とか「ここでアップかぁ」と厳しく採点。それから「ビデオ係」はパパに。テープはたくさんありましたが、パパは亡くなる直前に全部DVDにしていました。お別れが近いことをどこかで感じていたのかもしれません。
4年前から目指してきたドラフト1位の夢。宏太がかなえてくれて「凄いね!」って言ったら「凄いでしょ!」って元気よく言い返してくるでしょう。宏太は人との出会いに恵まれて成長しました。日本ハムさんが二刀流を応援してくれたことも凄くうれしかった。野球を始めた時から打って、走って、守って、投げてきた宏太。変わらぬ姿を、プロ野球でも見せてね。(矢沢 香)
◇矢沢 宏太(やざわ・こうた)2000年(平12)8月2日生まれ、東京都町田市出身の22歳。6歳から野球を始め、藤嶺藤沢(神奈川)では1年夏からベンチ入りし同年秋からエースも甲子園出場なし。高校通算32本塁打。日体大では2年秋に外野手、3年秋に投手、4年春に指名打者でベストナイン獲得。1メートル73、71キロ。左投げ左打ち。
≪「リアル二刀流」最速152キロ左腕≫大学球界では異例の指名打者を解除する「リアル二刀流」でもプレーした矢沢。全国制覇経験のある日体大で、投げては最速152キロ、打っては左の強打者として外野手と指名打者でベストナインも獲得した。プロでは「新しい形の二刀流のあり方を探していければなと思います」と野手出場からの救援登板にも興味を示す。父とは突然の別れとなったが「今でもそんなにお父さんが亡くなった実感はなくて、その分、お母さんが頑張ってくれている」と感謝。父には「(ドラフト後に)お墓参りをして“プロに行けました”と言いたいです」と誓った。
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