1月31日の大阪国際女子マラソン(長居公園~ヤンマースタジアム長居)で、ペースメーカーの川内優輝(33=あいおいニッセイ同和損保)が2時間21分58秒で完走し、話題となっている。ペースメーカーと言えば、30キロほどでレースをやめることが通例だが、川内は最後までアシストを続けた。相変わらずの型破り。ふと9年前の出来事を思い出した。
川内は2012年4月15日、かすみがうらマラソン(茨城・土浦)に弟鴻輝さん(当時、高崎経済大在学)のペースメーカー役として参加した。弟は12月の福岡国際出場のため、参加A標準記録(2時間27分以内)目指していた。3兄弟の長男として末弟に記録を突破させるため、1キロ3分25秒ペースの2時間25分を設定。しかし、アシスト役に徹するはずが、走りだすと持ち前の闘争心に火がついたようだ。
鴻輝さんによると「23キロ付近で振り落とされました」。その後、川内は前を走る米国人選手を猛然と追ったという。25キロまでの5キロラップは17分10秒台だったが、以降は16分48秒、16分48秒、16分10秒とペースアップ。終盤に逆転すると、ぶっちぎって競技場へと戻ってきた。
最後の直線は、獲物を見つけたチーターのような猛ダッシュ。晴れやかなドヤ顔でテープを切った。月桂(げっけい)樹をかぶせられるとファンの声援に両手を上げて応える。前半のペースメーカー役が響き、タイムこそ2時間22分38秒と平凡だったが、2位に2分21秒の大差をつけた。しかも通算12回目のフルマラソンで初優勝という記念すべきレースとなった。
走り終えると、最初から弟はいなかったかのように「いい練習になったし、気持ちよかった」。ズッコケそうになった。そもそも弟のペースメーカーだったのではなかったのか? そう問うと川内は「途中で後ろを振り返ったらいなくなっていた。こうなったら、ほかの市民ランナーの方々を引っ張り、みんなに2時間30分を切ってもらおうと思った」。その一方で、弟は1分36秒(2時間28分36秒の7位)及ばず、福岡国際出場はかなわないというオチまでついた。笑わずにはいられなかった。
翻って今回の大阪国際女子マラソン。川内は1キロ3分18秒のペースをしっかりキープし、日本記録(2時間19分12秒=2005年・野口みずき)を狙う一山麻緒(23=ワコール)をアシストした。期待された一山が後半にペースを落とすと、声をかけて励ました。どこまで走るのか? 決められた距離はとうに過ぎているだろう。それでも足を止めず、競技場に向かった。
これはまさか…。トップでゴールをする姿をひそかに期待した。だが、さすがにそんなことはしなかった。競技場のところで脇にそれ、きれいに先頭から降りた。見事なペースメーカーぶりだった。その裏で、最後まで走り抜き、108回目のフルマラソン完走を果たしていた。
かつて「呼ばれたレースで途中棄権するなんてあり得ない。僕は(足を痛めても)這ってでもゴールします」。武士をほうふつさせる生真面目さ。走り切るのが礼儀-。レースを途中でやめるというのは、川内の美学に反するものだった。
余談だが、1年半ほど前に中央道の山梨・談合坂サービスエリアに立ち寄った。隣に止まった車から降りてきたのは、偶然にも川内の弟、鴻輝さんだった。陸上担当から離れて長くたっていたが、すぐに声をかけた。変わらぬ笑顔で「山梨にレースがあって仲間たちと走りに来ました」と、雑談に応じてくれた。あの日、兄に置いてけぼりを食った弟君は、今や地元埼玉・久喜市議会議員であり、会社経営者でもある。立派になった姿に接し、時のたつのは早いと思った。
新型コロナウイルスの感染拡大で長居公園での周回コースとなった大阪国際女子マラソン。閉塞(へいそく)感が漂う中で川内は「日本に明るい話題を届けたい」と意気込み、レースに臨んでいた。黒子ながら堂々とした力強い走り。その被った帽子には「JAPAN」の大きな文字が見えた。
「頑張れニッポン」。そう読めた。世の中に勇気を与えたい。そんな川内の気概を感じた。
まだまだコロナ収束がみえぬ中、心がほっこり温かくなった。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)
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