戦時中、長崎は県全体が海軍の基地になっていました。長崎市は軍需工場、佐世保市には海軍佐世保鎮守府、大村市には海軍航空隊がありました。そして戦地で負傷した兵士を収容していたのが大村海軍病院(現国立病院機構長崎医療センター)でした。
原爆を投下された8月9日、大村海軍病院には758人の負傷者が収容されました。私のように救護所の閉鎖で運び込まれた患者を合わせると、千数百人の被爆者を治療したといわれています。
入院して2日目、看護婦さんがやって来ました。軍人相手の気が荒い看護婦さんだから、子どもといっても優しくしてくれません。それまで海水をつけてゆっくり取っていた背中のガーゼを、両手で力任せに引きはいだんです。あまりの激痛に悲鳴を上げました。被爆から約3カ月、傷口を覆い始めていた薄い膜がはがれたんだと思います。昏睡(こんすい)状態は続いていましたが、それまで痛みはあまり感じませんでした。本当の苦しみは、このとき始まったのです。
あまりの痛みに、夜も眠れない。背中に塗られる薬がまた、ものすごく染みた。治療器具を載せた台車のゴロゴロという音が近づくたびに、「殺してくれ」と泣き叫びました。看護婦さんたちは私の手の届くところに、はさみや棒を置かなかった。そばにあれば自ら命を絶っていたと思います。背中や胸の肉は腐ってどぶどぶと流れ落ち、体の下に敷いたぼろ布にたまります。看護婦さんはそれを一日に何度も捨てなければなりませんでした。
夏になると、左肘にうじがわきました。蚊帳が張ってありましたが、関係なしに次々に卵がかえっていった。うじは骨と骨の間に食い込んでいき、ぎりぎりと痛むんです。大きくなったうじが見えますが、動けない自分にはどうしようもなかった。
腹ばいで寝る私の枕元に、看護婦さんはいつもカルテを置きました。ドイツ語で書かれているので理解できませんでしたが、「危篤状態」と漢字で走り書きしてあるのを何度も目にしました。このころ、誰一人として私が生きられると予想する人はいなかった。先生たちは毎朝病室に来ては、「今日も生きている」とささやいていました。私の家では葬式の準備をしていたそうです。(聞き手 久知邦)
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「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから
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「殺してくれ」 肉が腐ってどぶどぶと落ちた 原爆を背負って(12) - 西日本新聞
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